
夏目が『貸本マンガRETURNS』の読後感において私の論述を難詰しているが、それは多くマンガに関した内容ではない。私は、紙芝居や貸本マンガの社会的背景を問題としたのだが、夏目はその私の社会的認識が「気に食わない」ということである。それは、いってみれば、ただに私の思考への嫌悪感を披瀝しているに過ぎない。したがって、最終的にはじつに感情的な「対立」をうながすものでしかないけれども、そこで重箱の隅をつつくような揚げ足取りに終始すれば、非生産的な結果をしか意味しない。
そこで問題は、夏目は小泉首相が主導したイラク侵略戦争加担についてどのような態度をとるのか、という設問から出発したい。私は、たしかにイラク侵略戦争への参加に象徴される現今の「新たな軍国主義」を指摘したが、夏目はそれを「アジっている」として非難した。夏目からみれば「アジっている」としかみえなかったのだろうが、事態は事実である。たぶん、夏目は、イラク侵略戦争への参戦を支持する側にありたいのだろう。夏目は、そんなことはない、自分も戦争一般には反対だ、と言うかも知れない。だとしたら、「新たな軍国主義」と書いた私の認識に対し具体的な反論を展開する必要がある。「権藤はアジっている」という言い方で、夏目こそが「アジっている」とみえるからだ。
やはり、問題は戦後の歴史を、あるいは近代の歴史をどのように把握し、認識するかということにつきる。であるから、夏目は私の論述を感情的に拒否するのではなく、戦後に対する自らの見解なり認識なりを公にすべきなのだ。たぶん、夏目と私とではすべての理解において180度の差異があるのだろう。にもかかわらず、夏目は思考の根源を明かさずに論難する。つまり、夏目の不勉強からくる一方的な戦後観が正当であり、私の戦後観があたかも誤っているというふうにである。そこに露呈するのは、自らがいちだんと「優位」な立ち位置にあるという表明でしかない。「マンガ表現論」といえども、その根底には必ず自らの認識=思想が横たわるはずであるが、夏目は自らの立脚点についてあまりに無自覚である。
ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、東欧崩壊を経たことで、夏目の認識や立場が「優位」にたったということにはならない。たしかに、いわれるところの「東西冷戦」構造はなくなったかもしれない。だからといって、被抑圧者がこの世界からいなくなったわけではない。グローバリズムは、計り知れない被抑圧者を生み出しているのが現実である。そのとき、「二項対立」は意味がなくなったという理解は、ほとんどノーテンキというしかない。いわば、現在をどうとらえるかは、過去の歴史、つまりこの本の場合、貸本マンガの歴史をどうとらえるかという課題に直結する。
ユーゴ内戦を主題とした「ボスニア」という映画があった。セルビア兵は戦火にもえる農家の壁に「ボスニアを東京に拡大せよ!」と落書きした。西側主導による世界の「良心」から蛇蝎のごとく嫌われたセルビア兵の悲痛な叫びを夏目は、いかように受け取るかなのだと思う。たしかに、「権威」ある大朝日の御用文化人である夏目からすれば、私の論述には「呪詛」が渦巻いているととれよう。それを否定するつもりはない。私は、いまのいままで、夏目を批判したことはなかったが、私の「朝日文化人」批判のなかに夏目が含まれていなかったとはいえない。だから、朝日の庇護のもとに「文化」をあやつる夏目の逆鱗にふれたとして少しも不思議ではない。
戦前も戦後も、朝日は常に「文化人」にすりより、「文化人」は朝日にすりよってきた。あるときは軍国主義と、あるときは進歩派と、そしていまは保守的な「文化人」ともたれあって。それは、残念ながら事実である。権威によりかかろうとする夏目は、私の「コンプレックス」を云々するが、大朝日の庇護のもとにある夏目こそがコンプレックスの固まりであることは言をまつまでもない。私のようなものには失うものがとくに見当たらないが、夏目にとっては失うものがあまりに多すぎるのかもしれない。たぶん、「中産階級」とはそうした存在なのだろう。(つづく)
参考サイト:『 夏目房之介の「で?」』
http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004353.html#more
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