BLACK FLAG FESTA 2003
PUNK/HARDCORE ANARQUISTA GIG 2 DAYS

出演者紹介

黒鳥

Anarchist independent Review vol.91997.5

★ 郭 達年 interview
“わたしたちに支配者はいらない”

■ 黒鳥前史――70年代戦線の活動と解散

A まずこのAiRという小さなZineについて説明したいと思います。 AiRは毎号およそ300部が読まれています。新宿にある模索舎といった、欧米でいえばインフォ・ショップのような店でおよそ100部。東京と大阪にあるパンクのレコードショップで50。それから定期講読者が50部。手売り、贈呈合わせて100ぐらい。

 どのくらいの頻度で発行しているんですか。

A 平均すると年に二回ぐらい。ええ、少ないです(笑)。読者の中心は、1989年の天安門広場の模様に同時代的に共鳴していたような――いま20代後半前後ぐらいの人びと。この人たちが主なライターでもあります。ほかに、ハードコア・パンクが好きな若者とか、あるいは30代以上の――長らくアナキストとして運動に関わっていたような読者もいます。私たちは、政治的な、あるいは文化的な動向について――とくに音楽について、そして私たち自身の生活に関して、ある共通した姿勢や態度で向き合う――そのようなことをひとつの理想としています。
 だから、AiRの誌面には、そうした視点を反映したいと思っています。それが編集の方針でもあります。その意味で、以前あなたの刊行している“黒鳥通信―― Comunique”の表紙に、音楽/文化/生活政治と銘打ってあるのを見て、とても親近感をもっていました。

 そうですか。うん、分かりました。

A では今から質問を始めたいと思います。黒鳥の活動がどのようにして始まったのか。私たちはスタートの時点から、あなたの話をうかがいたいと思っています。そこで、もし黒鳥の前史としての活動があれば、お聞かせ下さい。

 それは70年代の半ばから80年くらいにかけてのことでした。私は音楽という活動形態はまだとっていませんでした。

A どのようなことをやっていたんですか。

 ある政治的なグループをつくって、そのグループで活動していました。

A それは何というグループだったのでしょうか。

 70年代戦線。私はそのグループのメンバーでした。

A そのグループに関する記事が、富士宮アナキズム文献センター(CiRA-NiPPON)(※2) の資料のなかにあって、読んだ覚えがあります。それが私の香港のグループに関する唯一の知識です。70年代戦線はアナキストのグループだったのでしょうか。

 いえ、アナキストだけじゃなくて、思想的にはいろいろな考え方の人が混ざっていましたね。マルクス主義者、トロツキスト、そしてアナキストなど、様々でした。メンバーは、それぞれ労働者だったり、学生だったり、あるいは大学の関係者――教授のような立場にある人ではなくて、講師ぐらいの人――もいました。少しでもラディカルなことを実践する人は香港では非常に少数派ですから、思想的な小異は捨てて、共闘したというわけです。

A そのグループではどういった活動をしていたんですか。私の見た記事は、公共料金不払いの直接行動をアピールした内容でした。

 70年代戦線が行ったのは、たとえばそういった、ちょっとした実践的な政治運動ですね。そして本を読んで――読むだけじゃなくて――つまり理論研究会です。私はその二本だての活動をしていました。それから、書店――社会、政治関係の本を集めたような店をオープンして、運営したりもしました。そこでは、海外で出ている雑誌や書籍などで気に入ったものを輸入して売ったり。

A 書店ですか。出版はしなかったんですか?

 もちろん、売るばかりではなく、出版も同時にしていました。自分たちの新聞、それから海外の理論書の翻訳などを刊行していたんです。巴金 (※3) が訳したアナキズム理論書とか。

A クロポトキンとか?

 そう、そう、クロポトキン。それから、60年代の状況主義者インターナショナルの本とか。私たちは、自分たちの書店を窓口にして、そういった考え方を香港に流していこうと考えたんです。つまり、文字媒体で自分たちの政治的な考え方をひろげていこうという活動ですね。当時そうした活動をしている団体は私たちだけではありませんでした。しかし私は次第に、文字媒体に頼った活動は、非常に限定された影響力しかもてないのではないかと、考えるようになりました。

A それまでの活動の方法に疑問を感じるようになったわけですね。

 少し大きな観点からいえば、それはこういうことだったと思います。70年代末から80年代初頭の香港は、非常に保守的な空気が流れていました。私たちは世論からも、あるいは一般的にはより進歩的だとされている大学の関係者などからも、「過激で危険な思想をもっている奴らだ」というような見方をされていた。つまり、当時私たちのもつ考え方や活動は、受け入れられる土壌がほとんどありませんでした。今でこそ、私たちのような存在はとりたてて極端だとは思われていませんが。

A もっと具体的な問題はありませんでしたか。

 それは、ひとつには金銭的な問題ですね。まず、私たち自身が出していた新聞が、売れない。それに、私はその書店の棚にはかなりいい本を集めたと自負を持っていました。でも、一日に20冊しか売れなかったりしたらどうします?(笑)。店ではたらいてる人にも当然給料なんて出やしない。とどのつまり、ヴォランティア・ワークですよね。そして資金が底をつき、電気がとめられてしまった頃(笑)、メンバーが集まって協議をひらき、もう閉める以外にないだろう、という結論がでたんです。

A あなた自身としては、その結論をどううけとめましたか。

 私たちは香港の社会で、自分たちを維持していくということすらも、その活動から得られなかった――ということですね。みんなそれぞれの道を探していこうということになりました。

■ 黒鳥結成と展開――〈運動〉と〈文化〉

A そしてあなたは黒鳥を結成することになったわけですね。それはいつのことでしたか。

 私が黒鳥の活動を始めたのは80年代の初頭からです。1981年ぐらいかな。

A メンバーは?

 パーマネントなメンバーは私とキャシーだけです。ほかには様々なサポートのメンバーがいました。

A バンド形態は今と同じですね。しかしあなたは何故、黒鳥というバンドの結成を選んだのでしょう。

 ひとつには、活動の方法を変えてみたらどうかと私は思ったんです。つまり、私たちには文化的なアプローチがまったく欠けていましたからね。
 それに私はアナキストですから、政治以前に重要なものがある。特に文化というものが私たちにとって重要なものだ、という考え方をしていたんです。その当時、まわりには音楽や芝居、映画の好きな人びとがいて、よく芸術理論らしきことを一緒に語り合っていました。しかし、こうして理論を話し合うばかりではなく、自分たちの表現を探る必要があるんじゃないか、と考えたんです。私は音楽をやる。他の人は脚本を書き、芝居をうつ。あるいはドキュメントを撮る。そして、いまでいうマルチ・メディア的な方法を使ってひとつのステージを作ってみたんです。それが1980年のことでした。本屋を閉めた後、そのようにして、黒鳥、民衆劇場、ドキュメントを撮る集団 (当初は無名で、その後 Active Video と名乗る) ――その三つが生まれたんです。

A ステージの反応はどうでしたか?

 マスコミは「音楽を利用して政治的な宣伝をしている」という叩き方をしました。そういうレッテルを貼ろうとした。けれども、世論は私たちに興味をもってくれた。受入れてくれたんです。それ以後、大学、それから地域のコミュニティ・センターを回ってライブをやりました。 でもただ演奏をするというのではなくて、たとえばコンサート+シンポジウムというようなスタイルでね。

A 行動を共にしていたようなバンドは他にもいましたか?

 いいえ、私たちだけ。今にいたるまで(笑)。

A シンポジウムでは、どのようなテーマが話されたのでしょう?

 当初は理論的なテーマでしたね。しかしそうした小難しい話をしてもまるで反響がない。そのうちあからさまに嫌がられるようなことになってきた(笑)。

A 人に嫌がられる理論的テーマというのは何だったのでしょう?(笑)

 以前から続けていた理論研究会のさいに話されるようなことですよ。

A アナキズムの原理・原則とか、そんな類のことでしょうか。

 まあ、そうですね。そこで私は、そうした理論的なものをバック・グラウンドとしながらも、現実的な問題を話したらいいんじゃないかと思ったんです。たとえば、香港の人と中国からのニュー・カマー、両者間の矛盾についてとかね。そういうテーマについて、私たちがもともと持っていた思想的な観点から語るというスタイルにしてみた。すると、来た人も非常に熱心に聞くようになったし、共感も得るようになったんです。

A 黒鳥がそうした活動を展開し始めた時期、民衆劇場やドキュメント集団は何をしていたんですか。

 いや、基本的に三グループはいつも共同で作業していました。黒鳥の演奏と民衆劇場の芝居の合同でステージをやったり。全員でたかだか十人ぐらいのグループでしたけどね。

A その三グループのなかで、共有されていた表現の方法論はありましたか。

 私たちはプロフェッショナルでもなんでもない。まったくふつうの人間である――実際そうだったわけですが――この点にアクセントをおいて活動するということでした。するとそのせいで観客の中から、自分たちも対等な立場であなたたちと一緒に活動したいという人が出てきた。次第に人が増え始めたんです。

A そうした反応、呼応が出てくることは、ある意味では運動のクライマックスのひとつだと思うんです。そんな空気が流れてくる、ひとつの転機となったようなイベントはありましたか?

 大学の講堂なんかでやれば、 200人から300人は人が集まりましたが、うーん、そういったことでいうとどうだろう……。私たちは基本的にあまり大きな場所ではやらないし、特にこれだ、というイベントは、ちょっと思い当たりません。

A では、何か別の変化はありましたか?

 そうしたイベントなりライブが成功し始めると、かつての書店をやっていた頃の仲間――トロツキストの仲間なんかから批判が出始めました。つまり、文化で権力を滅ぼす――そんな生ぬるいやり方でいいのか? 音楽で社会を動かすなんて、甘ったれた考え方だ。政治運動はあくまで政治闘争として取り組まなければならないのだ、と。

A あなたはその時、どう応えましたか?

 その考え方に与しなかった。そしてその批判的な仲間と意見を闘わせた後も、私はその考え方には与することができなかったんです。何故なら、文化には力があるのだから。その後のことです、私は1984年にヴェネチアで行われたアナキストの国際サミットに出掛けました。

A “Living Song” というフィルム作品になった体験ですね。

 そうです。そのサミットに出てみて、やっぱり自分の考えていることは間違いではなかったと、確信することができたんです。
  やっぱりそういったイベントですから、たとえば大学の教授やライターが参加して、いろいろなことを喋るようなシンポジウムが朝から晩まであったわけです。しかし同時に、音楽や文化的な催しが同時に沢山あり、その同じ場所で、参加者たちは自分の理論をどう実践に結びつけていくかということを話していた。
  私はヴェネチアのサミットに出席して、アナキストの運動のなかで文化は本当に重要なものであり、人生と結びついているものだと考えるに至ったんです。

A いわゆる「政治闘争至上主義」から「文化主義」に対する批判ですが、そのような議論はあなたが今おっしゃられたようなかたちで、世界各地の対抗勢力の中にあった。今もあるでしょう。そしてそれはアナキストの運動内部においても同様にあったし、あると思うんです。そのことを踏まえた上で、かつての仲間の考え方に与しない理由を、端的に表現するとどうなりますか?

 つまり、すべてを政治的な問題に還元してしまうのは間違いだと思うからです。そんな生活は人間の生活ではないでしょう。

A ええ。でも、文化とは一体何でしょう。あまりに大きな意味を持つ言葉ですよね。

 それではもう少し文化について話を続けたいと思います。
 1987年、私は韓国で行われたアナキストのサミット(※4) に出席しました。香港の代表としてね。そして、そこに集まった人びとは政治的な課題だけを話しているわけではなかった。自分たちの運動のなかに文化というものを、どういうふうに位置づけるか。そういったことを話し合っていた。
  思うに、文化があって、そしてもちろん社会があって、そこから導かれてその結果、ある成果――たとえば政治的な成果のようなものが現れてくるようなものなのではないでしょうか。当時、韓国の学生運動は非常に大きな盛り上がりを見せていました。そしてその盛り上がりを可能にしているものは何か。それは、民衆の文化的基盤ではないか。つまりそれが文化というものではないかと私は思うんです。

■ 黒鳥の音楽的背景――D.I.Y.としてのパンク

A “連衆顛覆“には、世界の様々な民衆音楽の要素が詰まっていました。フォーク/ロック・ミュージック、パンク、レゲエ、ヒップ・ホップ、サウンド・コラージュ、それからスペイン革命の記録映画に使われているような民衆歌まで。黒鳥の音楽の背景には、そうした幅広い民衆音楽の世界があります。
 では、あなた自身の文化的基盤の重要な要素、殊にあなたの音楽的なバックボーンについてお聞きしたいと思います。まずあなた自身の最初の音楽体験はどのようなものでしたか。

 子供の頃私はカソリック系の学校に通っていたんです。だから学校教育のなかで接した西欧の音楽の影響がまずあるかも知れませんね。それから家庭、生活環境のなかにおける中国の伝統的な音楽の影響もあるでしょう。

A 29日のコンサートではア・カペラでうたった「上大人」という曲にはそうした面が出ているわけですね。

 でも自分から音楽に接するようになったのは、60年代後半に起きた世界的な規模での反戦運動などを背景にもつフォーク・ソングを知ってからです。ピート・シーガー、ボブ・ディラン。それから、ロック・ミュージックを聞くようになった。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス。ひととおり、ずっと追いかけて聞きました。

A 60年代の後半、あなたは10代の前半だったと思うんですが、当時、そうした音楽のどこに惹かれたのでしょう。

 まず、とても平易な歌詞によって何かを伝えることができるということ。そういったことをボブ・ディランから学びました。それからジミ・ヘンドリックス。彼の音楽にはスピリチュアルなもの、精神を解放をする力があった。

A 黒鳥はパティ・スミスを2曲カヴァーしていますね (※5) 。つい先頃彼女は来日したんですよ。

 あなたは見に行きましたか?

A ええ。とてもよかった。

 “民衆擁有力量“はもちろん彼女に送りました。パティ・スミスの最初の3枚のレコードは本当に素晴らしいですね。

A 4枚目以降は?(笑)

 いや、みんないい(笑)。

A パティ・スミス、あるいは80年代前半に始まったハードコア・パンクも含めて、あなたのパンク・ムーブメントの体験はどういうものでしたか。

 セックス・ピストルズやクラッシュが出てきて、いわばパンクのメイン・ストリームを形成して……といったことがいわれてます。しかし、私はそうしたパンク・ロックのメイン・ストリームに興味はありません。私の場合、セックス・ピストルズ以前に、クラスの活動に目を見張りました(※6) 。クラスは音楽をもって社会的な問題を扱い、社会に影響を与えるような方法で活動をしていたでしょう?

A ええ。クラスは独特な音の力で人びとをつかんだと同時に、ある種の精神・考え方を、より具体的な方法論とともに、私たちへ伝えました。

 私が思うのは、要するにパンクは自分たちでも、シロウトでも音楽はできるんだということを示した。そのことにおいて、人びとに大きな影響を与えた。誰もができるものとしてあらわれたパンク・ミュージックを、私は大きく評価するんです。

A ステージを眺めていた者が、いつしかステージでプレイしている――そうした相互乗り入れが当然のようにおきた。その現象を一言でいう言葉がありますね。Do It Yourself という。

 ええ、まさにそれです。

A ただ、パンク・ムーブメントの大きな波及作用のなかでは、サークルAのマークとか、スパイキー・ヘアとか、鋲とか、ある種スタイルの果たした意義というものもまた見すごせないと思います。その点はいかがですか?

 残念ながらパンクの風俗的な流行や伝播という現象は、香港にはまったくなかったんですよ。だから、それはちょっとわからないですね。香港には、パンクを聞く人もプレイする人もあまりいませんでしたから。

A 黒鳥以外でいうと、たとえばエイリアンというバンドのカセット をきくと、パンクの影響がうかがえます。こうしたバンドは例外的な存在になるんでしょうね。

 ああ、エイリアンは随分昔に解散してしまいました。香港でパンクが一般化しなかったのは、まず情報量が少なかったからでしょうね (※7) 。

A しかし、あなたはパンクに注目した。あなたにとってのパンクとは何でしょう。

 それは D.I.Y という考え方です。それが重要です。たとえば、黒鳥は独立レーベルからCDなど作品を売り出し・流通させています。既存のレコード会社に頼ったことはない。そして、私たちがやっていることを見て、また別の人びともそうしたやり方で作品をリリースし始めました。パンクの影響は、そのような形で香港にもある、とはいえるでしょうね。

A 黒鳥はいつからそうした方法で作品をリリースし始めたんですか。

 最初の作品は1984年に発表しました。“東方紅/給九七代” というカセットがそれで、1984年にイギリスと中国との間に香港返還について――中英合意文書が交わされた、ちょうどその年です。ここに“連衆顛覆”以前の全作品が入ったカセットのボックス・セットをもってきました。黒鳥の作品、プロフィールの詳細はこの中に全部入っていますから、それを参照して下さい。

A 分かりました。その後、作品の数を増やしていくなかで、たとえば販売店や販路の開拓など、その種の作業をどうクリアしましたか。

 自分でレコード店や書店に持っていきました(笑)。

A それだと販路は限定されるんじゃないですか。

 香港はそれほど大きな場所ではありませんからね(笑)。

A ああ、なるほど。“連衆顛覆“を私は尖沙咀のHMVで購入しました。G.I.G という発売元を通して配給しているんですね。

 そうです。随分昔に店置きを断られたこともありましたが、今はタワー・レコードなど、大手のレコード店にもおけますし、販路についての問題はないですね。

A 内容も?

 もちろん。

A あなたはこの間、インディペンデントなミュージシャンたちとTribal Xiang Gang (香港部族) というネットワーク (※8) をつくったときいたんですが。

 Chan wai fat(※9)や Dancing stone(※10) 、それから Peter Suart たちと一緒にね。Chan wai fat は黒鳥のサポート・ギタリストでもあります。

A 彼らは、とてもエクスペリメンタルな音楽を演奏していて、黒鳥の音とはまたずいぶん違いますね。あなたは彼らの音楽をどのようにお思いですか。

 彼らは自分自身の音というものをつくろうとしているミュージシャンなんです。香港ではまだ彼らの音楽は一般的ではありません。日本には彼らのやっているような音楽を聞く人が多いときいていますから、今は香港よりも日本で受け入れられやすいでしょう。

A そうかもしれません。昨年、彼らや民衆劇場のメンバー、それからあなたがくらすランタオ島・梅窩で数日過ごしたことがあります。シティからは想像もつかないほど静かな場所でしたが、あなたがたのD.I.Y的な音楽活動の方法と生活様式が、密着しているような感じを持ちました。

 私は今のところ週に一度か二度文章を書いたり、音楽のプロダクションをやったりするだけです。Chan wai fat なんかは以前の3年間の勤めで貯蓄があるから、今のところ仕事を求めていない(笑)。

A あなたは生活という表現をよく使いますね。先日キャシーと話をした時も、彼女は、私にとってアナキズムとは自称するようなものではない。生活そのものだ、といっていたのが印象的でした。あなたの生活の哲学――というと大げさですが、何か生活に関する考えがあったら教えてください。

 要するに消費を抑えるという考え方ですね。もちろんアパート代などは払わなくちゃいけないわけだけど、ギターを弾いたり、CDを聞いたり、そうした時間を多くとれていて、まあ今のところ非常に幸福です(笑)。

A “黒鳥通信”にこんな言葉が書いてあります。“Life can be magic.

 そうです。私たちは自分たちの生活というものを理想的なものにしたいと考えていますから。忙しさとかプレッシャーのない生活、ミニマムな形での消費というイメージでくらしています。そして最大限の楽しみをえるということが理想ですね。

A あなたの今の楽しみは、たとえばどういったことでしょう。

 生活上の? うーん、そうですねえ……。香港ではいろんな生活上の制約というものがあって、そういうものを解放するために、自分たちの生活を表現していくこと。それが自分にとっては一番の楽しみですね。私は音楽という手段を通じて、今の状況を少しでも解放するために表現しているわけですが、表現することは、ものごとを解放していくということでもある、と私は考えているんです。

■ 香港返還と今後の活動

A その表現が中国政府に奪われる可能性がある。ライブやシンポジウムで、あなたはそう語りました。返還以降の表現、人権弾圧の危機について……。あるいは今、香港では実質上ストップしている死刑の復活といった問題も出てくると思います。しかし、私たちの中国、香港社会についての無知もあって、それをつかみきれているとはいえません。実際どのようなことが起きるのか、そのイメージをもっと具体的につかみたいんです。

 私たちは中国政府の行ってきた数々の抑圧のうち、たとえば89年の天安門事件、北京工人自治連合会の張京生 (※11) や魏京生 (※12) など、民主活動家の投獄、言論・表現弾圧のあることを知っています。返還以降、そういったものと同質の行為が、どの程度、どういった人びと、どういった傾向に仕向けられる可能性があるのでしょう?
  そういうことでいえば、まず中国政府批判をしている人びと、彼らのように批判的な表現活動をしている人が、弾圧の対象になるでしょうね。今、法に則してやっているようなことでも、7月以降、多分、人権法という法律が変更されるでしょうから。そうした批判的な表現活動をやっている人びとにはいろいろな流派、流儀というものがあってひとつではありませんが、共通していっているのは次のようなことです。自分たちは自分たちの表現活動を手放さない、と。

A 表現する上で様々な制約がかかってくる、そのことについて危機感をもち、対峙しようとしている人びとは、今どのようなことを考えているんでしょう。一昨日トウ小平が死にましたが、これもやはり何らかの影響を及ぼすと思うのですが。。

 7月までに共産党の大会があります。それまでに共産党内部の権力闘争が起きる大きな可能性があります。それは、香港人のなかの希望的な観測――つまり香港の自治が失われていく、ということでもあるんです。たとえば、知り合いの雑誌編集者や学生の政治組織の人びとも、自分たちの表現と自治を守っていこうという話をしていますし、私たちはそうした可能性に積極的な準備をすすめています。

A 香港の漫画や映画などが、たとえば俗悪な資本主義的な表現だとされて弾圧された場合、私たちはそれに反対の声をあげると思うんですが、そういったことをどう考えますか?

 マンガの中の批評性、それが社会に対して煽動的な役割をするような面を、新華社などが主張しています。しかし、既にマンガ自体がインターネットの画面の中に見られるようになっているんですね。だからたとえば、香港にいる政治的な主張を含むマンガを書いているような人びとは、恐れていない。香港でやっていくといっています。

A 「Mr. Boo」で有名なマイケル・ホイが、大きな市場である中国での映画ビジネスの展開に非常な熱意を込めて語っています (※13) 。彼は中国側のアドバイザーになったとかで、あなたとは立場が違う。しかし、政府からの制約があるとしても、映画はもちろんそれ以外の香港の文化が、これまで以上に中国の人びとへ伝わっていくことは確実でしょう。その時、あなたはその流れにどのようなスタンスをとりますか。たとえば、黒鳥の音楽をよりひろく伝えるきっかけになる可能性はまったくないのでしょうか。

 私としてはそれを望みます。もちろん中国にすむ人びとにも、黒鳥の音楽をひろく聞いてもらいたいとは思っていますよ。しかし、それはやはり困難なことではないかと思えるんです。私たちの作品が彼らの映画と同じように、公開されたパイプを通じて配給されるようなことが可能かどうか。それはどうでしょうね? 正直いって分かりませんが。
 いや、黒鳥の作品は、今だってアンダーグラウンドなパイプをつたって中国へ流れているんですよ。むしろ返還以後、それすら危うくなる可能性が強いということなんです。

A もし法律が改悪され、あなた自身の表現活動を続けられなくなった時はどうしますか。

 表現すること自体が不可能になったら、自分たちは地下組織的な出版・流通をしようと考えています。もちろん大きな雑誌社などがそのようなことをやるはずはありません。私たちは自分たちの民衆間のネットワークを活用した方法で、それをするでしょう。

A もし弾圧があった時に、日本で私たちがやれることは、どういった具体的な手伝いがありますか。

 その時、まず香港で何が行われているかをつかんで欲しい。返還後もマスメディアを通じて様々な情報があなたがたに伝わるでしょう。しかし、マスメディアには報じられないことが沢山出てくるはずです。ですからその時あなたがつかんだ情報を、いろいろなネットワークを活用して、世界的に広めて欲しいと思うんです。もちろん私たち自身も可能な限りそれをすると思います。

A インターネットがあったとしても、政府に登録しなければならなかったら……。

 ですから、そうした香港の人びとに対する支持を日本で広めて欲しい。たとえば中国大使館へのデモなんかもそのひとつでしょうが、やることはいろいろな方面にあって、やり方もひとつではないと思います。

A ところで、台湾の運動との交流はどの程度あるのでしょうか。

 今のところありません。しかし、政党に縛られない交流ならば、いつもそれを望んでいます。私は台湾独立を支持しています。中国統一を、良いことだとは思っていませんから。

A 尖閣諸島・釣魚島に日本の右翼が灯台を設置したという問題をめぐって、香港や台湾では広範な反日運動が起きたという報道がなされました。そして、それを中国の覇権主義と結びつけて語る、つまり中国脅威論を喧伝する評論家もいます。

 もちろん香港には、日本に侵略されたという歴史があります。そして、香港での報道は日本政府と香港の利益との対立を煽り立てるようなものでした。しかし私は、そうした「反日運動」が、大中国主義とでもいったようなものに結びつくようなものとは思えないんです。その時、香港では、マスメディアの報道に対して異議・違和感を表現した声明が e-mail で流布されていました。それがどういうことを意味すると思いますか。民衆間にはそのようなマスメディアとは別の交流があり、そしてそれは今後必ず力を発揮する時がある、ということではないでしょうか。だからこそ、私たちは私たちが返還についてどういったことを考えているのか、それを人びとにアピールするために日本に来たわけですから。

A 私たちもあなたとそうした意味で交流をもち続けたいたいと思います。かつて、スペインや韓国、フランスなどから数多くのアナキストが来日しましたが、その後うまくコミュニケーションをもてないことが多いんです。レニーさんとは今後ともうまくコミュニケーションがとれたらと思います。

 こちらこそ、是非そうしたいと思います。しかし、こんなにも反響があるなんて思いもよりませんでした。今回、友人の松本薫さんが実行委員会を組織し、その実行委員会の方々のおかげで、私はライブとシンポジウムなど、様々な機会をもてました。しかし、香港が返還された後、再びこうしたことができるかどうか、分かりません。こちらにやって来ていろいろな友人をつくり、交流を深めたことを、香港での自分たちの活動に生かしたいですね。

A 71日までという返還前の短い期間のなかで、あなたはどのような活動を予定していますか?

 3月、あるいは4月に黒鳥の新作を Tribal Xiang Gang からリリースします。“Before the storm”(暴風雨の前に)というタイトルです。コンサートももちろんしますよ。それからドキュメントを撮ったり、民衆劇場の芝居にも協力するといった予定が入っています。

A では最後に、AiR の読者へ何かメッセージをお願いします。

 たとえば中国の共産主義の例でいえば、党をつくったことで党の内側と外側というような区別が生まれる。その意味で私はアナキズムとは、人と人とをへだてない思想であると考えています。もちろんアナキズムにはいろいろな流派がありますね。それはそれとして、私はこう考えているんです。
 つまり、人が人として生きていく、そのような原理としてアナーキーがある。そしてそれはある種の空想です。その空想を自分たちのかたちにしていく――ということとして、私はアナキズムをとらえています。その空想を、実質的に、それを実行していくようなこととしてね。だから私は、たとえば自分たちの生活にそれを実現していく。あるいは文化というかたちで実践していきたいと思っているんです。

A 長い時間、どうもありがとうございました。

 謝謝。

■ 日時:21 Feb 1997
■ 場所:新宿
■ 通訳 小倉虫太郎,A. T. , K. T.
■ 聞き手 中島雅一,鹿島拾市ほか

■ インタヴューを終えて――フットノート

 黒鳥を知ったのは19906月。黒鳥と親しい同志的関係にある劇集団:民衆劇場が来日し、全国の路上で、天安門事件1周年を記憶に刻むためのゲリラ的公演を行った時のことである。ふたつの小さな会合とデモンストレーション。そこで民衆劇場のオーガナイザー莫昭如と会った。 ある晩、それは新宿の寄せの脇にある酒場の座敷だったが、相手の返事を聞きとれない癖に質問を浴びせる――という迷惑な一団の中に混ざっていた。漢字の筆談をも用いた会話は、苦労の割りに内容のないものだった。そんなやりとりにも疲れ、まだらな沈黙がでてきた頃、彼は鞄からカセットとブックレットをとりだした。これは香港のアナキストのパンク・バンドの作品で、自分はそれにも参加している。白髪混じり、香港のダニエル・ゲランといった風情で「あなたはマルキストの言葉を真摯にきいたほうがいい」などと意見する彼が、このバンドのゲスト・ヴォーカリストなのだという。墨に白抜き、幾羽の兎の耳のVサインのジャケット。タイトル“民衆擁有力量”。グループ名黒鳥。カセットは、ダビング装置のある人間だという理由で、私が持って帰ることになった。

*

 どうにもあか抜けない運動的表現のメッカである日本では、黒鳥のカセット・ブックは新鮮だった。単純にいえば、私は、〈文化〉が闘争であり〈闘争〉が文化であるような――両者が溶解しあっている状態――そのような漠然としたイメージを理想としてもっていた。しかし、理想の図式を念じるばかりで、どちらかといえば既存の運動のスタイルを批判するだけに終わりがちであった。 その洗練されたデザインのカセット・カヴァーとブックレットは、黒鳥に私と同じ志向のあることを予感させた。さらに、黒鳥はバンドという媒体においてある程度以上に具体化しているのではないか。こんな期待・願望入り交じったうけとめかたをした。
 カセットに詰まっていた黒鳥の演奏は、ひどく身近な音だった。アワ・ミュージック。それが、初めてきいた黒鳥の「ANARCHO-PUNK-FOLK-ROCK」の印象だった。私たちの音とは、どうした表現だろうか。それは棚の奥に入ることなく、たとえばカセットデッキの脇におかれたまま、テープがのび、埃にまみれるまで、そこに在る――くうべきうたのことだ。その身近さは、黒鳥の音楽的バックボーンが、私たちと変わらないこと、そして表現の方法に親しみを感じることによる。黒鳥の演奏には、私たちが憧れ、そして、私たちのその後の生命活動を変化させた「起源の音」の痕跡があった。「起源の音」とは何とも大げさだが、たとえばパティ・スミスのスピリティアルなロック・ミュージック。クラスのラディカルなアナキスト・パンク。重く沈み込むリディムのブリティッシュ・レゲエ。アフター・パンクのグシャグシャ、あるいは静かなオルタナティヴ。それらの音楽への憧れからはじまり、その影響を、自分の表現に転化していることにおいて、私たちは同じ時代の同じ空間に生存して少し離れているだけだと感じた。来日公演は待ち望まれていたものだった。

*

 昨年、香港の友人から黒鳥ひさびさのフル・アルバム“連衆顛覆”をおくられた。私たちがソニーとEMIをスクワットしたあかつきには(?)、ビルからこんな音が流れるだろうか。無名のヨーロッパの女のパンクス。鼻声の感傷的なカナダ人。ヒップホップ・ゲリラ。反CD派ロッカー。ドブロ・ギターを抱えた絵描き。パドパの月給取り。ランタオ島のマーク・リボー。風変わりな雑居ビルを思わせるこのCDは、黒鳥のユートピアなのだ。それを作品に実現したという意味で、本作は現在までの黒鳥の代表作だろう。ここには黒鳥の15年の活動とその方法論の結晶だと思う。
 黒鳥の音楽は、世界各地の民衆音楽のエッセンスでつくられている。しかしそのエッセンスは、ひとつのサウンド・コンセプトのなかに溶けているわけではない。ある種雑居的だ。それは、レニー、キャシーという個々人が、一人のメンバーとして参加した 1棟のスクワットをイメージさせる。この雑居という状態が、黒鳥の方法であり、黒鳥が黒鳥たる所以だ。チャンプルーでもハイブリッドでもない。 たとえば、日本で作品が発売される海外のアジアのポップ・ミュージックのアーティストに限れば、そんな形容詞がそぐわない場合の方が少ないぐらいだろう。しかし黒鳥の音楽は、そうしたポップ・ミュージックの主流とは異質だ。異質だからすぐれている、ということではない。ここでいいたいのは、レニーとキャシーがポップ・ミュージックのシステムの力学とは無縁に、自力で活動を続けていったとき、自然と身についた方法がそれだった、ということだ。

*

 黒鳥のライブの数日後、それも数人の友人から、黒鳥の演奏はどうだった? ときかれた。実際にライブにでかけた上で、どうだったと水を向ける人の多くは、俺はちょっと物足りなかったのだが、あなたは、というききかたなのだ。どうもズレがあったようなのだ。一口にいえば、日本の聴衆、それも私たちの周辺の人びとは、もっとどぎつさが欲しかったのではないか。率直にいえば、私もそれを感じた。黒鳥の演奏は予想以上に素朴なものだった。その印象は、三人というロック・バンドとしては最小の編成によるものもあるだろう。黒鳥にはライブ・バンドとしての弱さがあると思う。また、他のバンドの数はややうるさくもあった。ワン・バンドの演奏をじっくりききたかったのだ。集客のことを考えると、それはないものねだりなのだが。さらに、たとえば、スクワッターやアナキストに基盤をもつバンド―― LevellersChumbawambaCDを買って、期待ほどには感動できなかった、惹かれなかった――というありがちな体験。こうした物足りなさなら、よく分かる。アナキストのパンク・バンド――そこには、ある期待の次元の音が、確固としてあるかのようだ。
  しかし、それだけではいいあらわせない、あるズレがあった。それもまたどこかで覚えているような感覚だと思った。R's コートからの帰り、私は Chan wai fat がいった言葉を思い出していた。“連衆顛覆”からの曲をメインに淡々と繰り出された演奏には、余計な音がまるでなかった。シンプルさは、削ぎおとしたという類のものではない。ごく自然に演奏するとこのようになるのだ、という質の素朴さだった。その音の感覚は、レニーと“Tribal Xiang Gang”を結成した、より実験的な音をつくっているミュージシャンたちの音と、スタイルは違うにせよ、ある共通点があるように思えた。
 昨年、香港である演奏――香港芸術中心というきれいなホールで行われた John Lee (ヴォーカル、ピアノ、パーカッション) のライブを見た。John Lee は、昔日の津川雅彦に似たもてそうな目つきの男だった。そこに、Chan wai fat がハワイアン・ギターと親指ピアノ、Nelson Hiu が胡弓で参加した。映像と数部構成。セリフによって仕切られる、ある種のパフォーマンス的ライブだった。演奏はフリー。東京のどこかの暗い箱のなかで、身体中の穴を塞ぐようにしながら、目の奥に直接ギリギリと響くような過剰な轟音に浸されていると、もう、きくだけきいたと思うことがある。しかし、それは異質のものだった。虚をつくノイズだった。打ち上げのレストランから、ランタオ島への終フェリーに急ぐ Chan wai fat とは、その日話ができなかった。次の日、旺角にある MONITOR RECORD(灰野敬二やジョン・ゾーン、香港のインディペンデント・ミュージシャンのCDを販売。雑誌“MONITOR”を発行)で Chan wai fat と改めて会った。食事の後、雨宿りのセブン・イレブンで、その虚をつかれた感覚を伝えようとした。東京には耳をすまさせるようなノイズはあまりないのだ。どちらかといえば、皆、耳を塞がせることの方に興味がある、と。すると彼はこうかえしてきた。私の音楽は、アコースティック・ノイズなんだ。 それは、より大きく、よりハードに、極端に、突き詰めて……といった傾向をもつ日本のインディペンデント・ミュージックと対照的なものだった。東京で接した黒鳥の演奏――それもまた、対照的なものだったようだ。アナキストのパンク・バンドとして反射的に想起される、激しさ、速さ、重さとは無縁の演奏。バンド全体でひとつの音を鳴らしているかのような演奏。それはアコースティックな音だった。おそらくこのズレからくる違和感が、実は今回のライブの体験のキーだと私は思う。

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 レニーが香港に帰ってから、私は黒鳥の全集版カセット・ボックスの中身を繰り返しききはじめた。カセット5本をきいて書いた紹介文は別項の通り。私はもっと黒鳥の音楽そのものを伝える必要、余地があると思う。たとえば、“宣言”をきいてみて欲しい。その作品のなかには、間違いなく黒鳥の真価がある。
  「ロックをビジネスから切り離す」ことを主張しているレニーは、たとえばスタジオ・ミュージシャン的な演奏技術の基準を一考にもふさないだろうし、レコーディングにしても過剰なチャンネルは必要ないといいきるだろう。プロデュースの仕方についても、D.I.Y.という観点にこだわっている。そしてそれに私たちは共鳴するところ大なのだが、しかし、黒鳥の作品に、なんとも印象のぼやけた、まどろっこしい録音・演奏の曲はないだろうか。曲によってゲスト・メンバーは別。サウンド・スタイルも様々。これはいい。しかし、明らかにその多彩さの発色が悪いのである。それは、 11曲のアレンジのピントの甘さに起因するものではないだろうか。たとえば、この曲ではもっとレニーの声を生々しく録れなかったのだろうか。あるいは、民衆劇場のメンバーらによる、シアトリカルな参加の仕方をきわだたせることはできなかったのか等々。私は、黒鳥にはより強度のサウンド・プロダクションが必要だと思うのだが、レニーは何というだろうか。とまれ、既に制作を終えているだろう新作がどのような作品になったか、CDの到着を待つばかりである。

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 インタヴューを終えて、昨年末、BSで放映された黒鳥の数分のドキュメントのことをきくのを忘れたことに気づいた。画面のなかでレニーの息子がいっていたこと。つまり、父親のやっていることはわけがわからない、と。そのことについても、レニーはどう思うのかきいてみたかった。きけなかったことは他にもあるが、しかし、彼が〈文化〉を、人びとの抵抗意識、社会的なみもだえの感覚と不可分のものとしてつかんでいることを、直接きくことはできた。私たちのもっていた理想は会う以前より共有されていたこと、そしてすでに15年間以上、レニーはそれを具体化する方法を試行し、実践してきたことを知ったのだ。それが最大のことだったと思う。資料として添付したかったのだが、簡単な返還前後の経済、政治の動向分析、現在政治批判を理由に抑圧されている人びとのデータ等、オミットしてしまった。ある程度は必要と思い、資料だけは集めたのだが、荷が重すぎた。
 もし黒鳥のライブや作品について、何か思うところのある人は、是非原稿を送って欲しい (一言程度の短いコメント、あるいは原稿用紙5枚迄の小論) 。黒鳥に日本のリスナーの反応を投げ返していきたい。そうした反応こそ、アクションの連鎖を保証するものだと思うのだ。黒鳥やそして“Tribal Xiang Gang”の人びととの交流を大事にしたい。返還後もこのパイプを維持することを、目的としたい。レニーの要請に対する、ひとつの具体的な返答としたいと思う。

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 最後に。
 当然のことながら、そもそも黒鳥来日公演が実現しなければレニーとは会えなかった。その意味で、今回のインタヴューは、来日のために尽力し、カンパや助力の呼びかけ、金の心配、場所おさえ、ブッキングの気苦労等、もっともしんどい実務作業をこなした――香港的呼喚 HONGKONG CALLING 実行委員会の人びとに負っています。どうもありがとうございました。

※関連記事

  • “週刊金曜日”3.7 no.161 末廣芳美「弾圧されたら街頭で歌う」(レニーの富士宮アナキズム文献センターへの小旅行への同行記)
  • MUSIC MAGAZINE4月号 北中正和「プロパガンダに終わらなかった香港地下ロック 黒鳥の音「楽」」

社会評論社からは、黒鳥と香港返還をめぐる本が計画中とのこと。

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